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「日本の岩と石」のその他編です。 岩や石でも珍しい物や、神社、寺院、温泉以外の日本の岩と石。 単なる岩でも、その岩に固有名称が付けば、立派なランドマークとなります。 観光資源ともなります。 観光資源となった岩の前に祠と賽銭箱を設置すると、自然とお賽銭が入ると言う不思議な文化ですものね。 「松田石材店」と石屋さんはどの町にもありますが、ほとんどの石材店が、お墓屋さんですね。 お墓が、もっとも身近な石製品なのでしょう。 お墓以外の「日本の岩と石」をご紹介いたします。 誤解されると困るので、未だに私は岩と対話することも出来ませんし、石に頬ずりをすることもありません。 |
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対面石(和歌山県伊都郡九度山町) |
ちょっと、真面目な話でごめんなさいね。 ご存じですか。 和歌山県の九度山。 現地に行けば真田の旗印の六文銭が至る所にあります。 蕎麦屋さんも「真田庵」と真田尽くしの町です。 九度山町は、京都などのオーバーツーリズムで住民の生活もままならないような混雑はありません。 本当に落ち着いた町で、わざわざ都会から喧噪を呼び寄せる観光施策の意味が判りません。 まあまあ、これは便利な都会に住む人の得手勝手なエゴなのですが・・・。 ここは、関ケ原において西軍で戦った真田昌幸(父)と真田幸村(子)が、関ケ原で破れて14年間蟄居した土地。 本拠地の長野県上田市にある別所温泉周辺では、勇壮に戦った時代の真田一族が崇められています。 わが故郷の英雄。 そして、ここ九度山では、真田の隠遁生活の苦労がメインテーマ。 苦しい生活の中から真田紐が生まれます。 関ケ原敗戦から14年目、豊臣からの使者から参戦の依頼を受けて真田幸村は、大阪城へ出陣します。 まあ誰もその姿を写真に取っていないので、イメージ的には、鎧兜は赤揃えで騎乗姿、太刀と槍を大上段に構えて畏怖堂々と出陣出来る訳もなし、夜陰に紛れて獣道を夜を昼に継いで大阪城へ。 九度山には、影武者を残して動きが無いように画策しました。 見てきたように語って申し訳ない。 で。 ですね。 話を本題の対面石に移します。 実は、九度山に来たのは、真田幸村の足跡を確認しに来たわけではなく、空海(弘法大師)と空海のお母さまが、この対面石のところで対面したという伝承の石を見に参りました。 弘法大師を呼び捨てにして罰が当たるかもしれません。 空海に罰を当てられれば、これほど光栄なこともありません。 空海が高野山で金剛峯寺を建てているころ、空海のお母さまが息子に合いに香川県善通寺市から、はるばる九度山町へ来られました。 しかし、高野山は女人禁制の地で、九度山から先に行けません。 すると、空海は高野山から月に9回は、お母さまに合いに九度山へ下山したそうです。 そして、お母さまと空海が合ったと伝承されているのが、この対面石の場所だと伝承されています。 泣ける話じゃないですか。 ところが現地に行ってみると、どうも様子が違いました。 「空海は高野山から徒歩で月に9回は、お母さまに合いに九度山へ下山」なので、この土地を「九度山」と言う。 よくできた話。 結論は、対面石の最後に書いています。 |
失礼 逆光気味で失礼します。 写真右側から後光が指しています。と解釈。 細い道に、ひっそりと対面石はありました。 高知のはりまや橋、札幌の時計台と感じ方は一緒。 本当。 |
対面石の正面からの写真 高さ40cm 幅30cmぐらい。 対面石の裏側からの写真 |
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対面石の説明盤が、対面石の横にありました。 ここに、対面石の説明を記載いたします。 「対面石 槇尾山由来記によると、空海(弘法大師)は童形のころ、槇尾山(和泉国*1)におられ、弁財天を信仰されていました。 高野山開創後も、その信仰は固く、毎月、九度は槇尾山に参詣されていました。 ある時、紀の川が増水し、大師が渡りかねていると、「御対面石」に弁財天が姿を現わされ、「和泉まで参詣するのが大儀であるから、この九度山の地に移してよかろう」とのお告げにより、この尊を勧進して、槇尾山明神社に祀ったと言われています。 この対面石は、現在でも街道筋のこの地にあり、「紀伊続風土記」にも、「弘法大師槇尾明神と対面せし処といひ伝えたり」とあります。 今では弘法大師が母公と対面した所と説明されていますが、これは明治以降のことです。 ここは槇尾に登る口にあたりにあり、神聖な石も祀る大切な場であったと考えられます。」と。 おいおい。 話が違う。 どちらが真実なのか判りません。 往々にして、歴史的な観点は史実ではなく、その人の感性と物証から推測、時間経過での辻褄合わせが多分にあります。 モヤモヤしますね。 私の見解は、お母さまと空海が合った場所と言う刷り込みが酷いので自説を曲げないと考えます。 曲げれない。 生まれて初めて食べた餃子が王将の餃子。 世界で一番美味しい餃子は「王将」だと最初に刷り込まれると、どんな美味しい餃子を食べても「王将が一番」となります。 その論拠と言うか、イチャモンと言うか。 この説明盤の出典、この説明盤の内容を書いた団体の明記がない。 普通、説明盤の最後には、「●●教育委員会」とか「▲▲観光協会」とか文責の在処が明記されているもの。 この看板には、それが無い。 それから、「神聖な石も祀る大切な場であったと考えられます。」と最後の文面は神聖な石と対面石との関係性が不明。 その2点をもって、自説を押し通すこととしませう。 *1槇尾山は、大阪府和泉市槇尾山町に現存しています。 標高600mの山で、山頂から北東に標高485m地点には西国三十三か所の施福寺があります。 施福寺は天台宗のお寺。 天台宗は比叡山の最澄さん。 うむ!! |
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原子爆弾落下中心地碑 被爆当時の地層 爆心地公園(長崎県長崎市) |
原子爆弾落下中心地碑 (碑銘:原爆殉難者名奉安) 被爆当時の地層の看板 |
長崎原爆資料館から歩いて平和公園に入ると、最初に目に飛び込むのが、原子爆弾落下中心地碑(碑銘:原爆殉難者名奉安)です。 昭和20年(1945年)8月9日 11:02にこの碑の上空500mで、アメリカ陸軍航空軍[*1] 第509混成部隊所属 ボックスカー(機材:B-29)が、プルトニウム型原子爆弾[ファットマン]を炸裂させました。 長崎市街地は、三方が山、南側のみ海で開口、地形はすり鉢型。 そんな地形で原爆を炸裂させました。 思わず中心地碑から延長線上に空を見上げます。 当時、長崎市民の総人口は24万人、内15万人がアメリカ陸軍航空軍 第509混成部隊所属のボックスカー(機材:B-29)により一瞬にして死傷者となりました。 読みにくい文章になっているのは自覚しています。 しかし、軍名、所属、機体名、機材のすべてを書かずにはいられません。 原子爆弾落下中心地碑の50m手前右側に「被爆当時の地層」の看板があります。 吸い寄せられるように、「被爆当時の地層」へ。 {*1}アメリカ空軍じゃないのかと思われるかもしれませんが、1945年当時、アメリカ空軍は存在していません。 アメリカ陸軍の航空軍部門とアメリカ海軍の航空軍部門があり、アメリカ空軍は1947年に設立されます。 当時は日本も帝国陸軍の飛行隊であり、帝国海軍の飛行隊であり、独立した軍種ではありませんでした。 日米双方とも同じ状況です。 なお、日本においては敗戦後の1954年に航空自衛隊が発足しました。 |
被爆当時の地層 |
被爆当時の地層に至る階段から撮影しました。 手前の手すりは、被爆当時の地層へのアプローチの階段の手すりです。 手前の手すりの奥に、ガラス張りの中が「被爆当時の地層」です。 ガラス張りの上の手すりが長崎市が盛土をした現行の地表です。 現行の地表から2-3m下に、被爆当時の茶碗や瓦やサイダー瓶が残っています。 |
長崎 平和公園 被爆当時の地層 長崎 平和公園 被爆当時の地層 拡大写真 |
せんべい瓦やビール瓶、茶碗や小皿が見て取れます。 この一帯すべて、掘り返せば同じ被爆地層があるそうです。 被爆された方の遺骨も戦後70年以上経つのに、このままでいいのかと胸を打たれます。 これこそ、長崎県や長崎市のレベルではなく、国の責務として発掘埋葬をして終戦でしょう。 8月9日の原爆の日に、形だけの式典をしても、地層深くお眠りになっている方々は浮かばれない。 ここに限らず、ガダルカナル、アッツ島、硫黄島など国として対応しなければならない場所を残したままでいいのかと強く思います。 「日本はいい国」という想いと裏腹に心が折れます。 アッツ島の日本将兵の全滅後、昭和天皇は、アッツ島に向けて哀悼の電波を発信されました。 側近が「陛下 アッツ島には全滅して誰も残っていません」という言葉を遮って電波を発信されました。 こんな話を思い出しました。 生きて選挙権を行使できる国民の顔色は伺うが、死して物言わぬ先人は無視ですか。 これでは、いつまでも戦後は終わらない。 いや 現在は戦前なのかもしれません。 許そう。 しかし絶対に忘れない。 Forgive but never forget. Remember Nagasaki and Hiroshima. 平和公園から10分ほどで「長崎市永井隆記念館」と「如己堂」があります。 ここでは「石と岩」というテーマから外れるので詳しくご紹介いたしませんが、平和公園に行かれることがあれば、「長崎市永井隆記念館」と「如己堂」もお立ち寄りください。 永井隆博士については、「長崎の鐘」でググルと詳細が判ります。 是非 是非。 お願いいたします。 |
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拷問石 浦上天主堂(長崎県長崎市) |
浦上天主堂 |
浦上天主堂は、長崎原爆で吹き飛ばされたので、現在は戦後の新築の教会です。 戦前の浦上天主堂の遺物は、写真の坂を登った左側に当時の像や壁があります。 たまたま、浦上天主堂に着いたとき、90代の女性の葬儀に出くわしました。 その影響で天主堂の中には入れません。 天主堂の写真に写っている出入口の白い車が霊柩車です。 もちろん、異教徒で物見遊山の我々より、葬儀が最優先です。 ここで、気が付いたことを4点。 ・「告別式」ではなく、「葬儀ミサ」なのです。 ・長崎のクリスチャンは、女性はレースのベールを被っているイメージがありました。 しかし、参列されている誰もレースの被り物をされていません。 そして服装は男女とも普通の略礼服。 ・クリスチャンは、霊柩車をお見送りするとき、両指を組むものと思っていました。 実際は仏教寺院で手を合わせる形と同じです。 ・やがて教会の鐘が鳴り、霊柩車が出発します。 見慣れた葬儀なら、その後を親族の車列が続きますが1台も追従しません。 私は一応信仰心が三流旅館のみそ汁より薄い仏教徒ですが、宗教は違えど死者に対する敬意を表すために、お見送りに端の端で手を合わせていました。 もちろん仏式。 ところがどうでしょう。 3mぐらい離れたところに、観光客の60後半から70代の男3人組。 「卓袱料理よりちゃんぽんのほうが、口に合うわ。 ガハガハ ガハ。」と大声で笑っている。 日本人はどうしてしまったのでしょう。 自分の葬儀なら慌てふためくのでしょうが、顔も知らない他人の葬儀には関心なしか。 死者への哀悼、先人への敬意など微塵も感じません。 知らんがな か?。 さて、拷問石の話ですが、浦上天主堂へ続く坂を登り切った右側に「信仰の礎碑」があり、その根本、下記写真では赤い矢印のところに拷問石が展示されています。 |
信仰の礎碑 浦上天主堂 拷問石 説明文 浦上天主堂 拷問石 (小さな花束が寂しい) |
「浦上四番崩れ」などと書けば、書いている方も今回長崎に来て初めて知った言葉なので、掻い摘んで端的に拷問石について書きます。 江戸幕府は、慶応3年(1867年)に浦上のキリシタン3400名を改宗させるため他藩へ送り込みました。 つまり、キリシタン信者をバラバラにして、少数者にした上で改宗を迫るマキャベリの戦術か。 3400名の内、301名が萩藩(山口県)に送られ、萩藩では、この拷問石(花崗岩)の上で裸にして正座させて、冬には寒ざらしにされ、不改宗者には食事も与えられませんでした。 それでも、改宗に応じず、明治6年2月までに萩藩に送られたキリシタン36名死亡、264名が浦上に無事帰還しました。 想像してみてください。 こんな石の上で裸にされて、食事もなく、冬の寒い日に髪の毛まで雪で埋まる自分を。 耐えられない。 ここからは、私の私見。 慶応3年といえば、大政奉還の年で、江戸幕府にも足元に火が付いていた時期です。 京都では新選組が市中を見廻り、11月には坂本龍馬が暗殺される世情不安な時期にも拘わらず。 キリシタンの改宗事業を行う。 幕府にとって、より優先事項があったのではないかと思います。 まったく現代のああすれば良かったという結果論の視点からで、非常に心苦しいですが、ここまで信仰心の強いクリスチャンが生まれるという信仰とは何かを考えさせられます。 当時、幕府はオランダとの太いパイプもあっただろうし、オランダからプロテスタントを導入して、クリスチャンかプロテスタントかの選択肢をキリシタン信者に提示できなかったのかと不思議です。 信者に仏教に改宗を強要しても、反発を招くだけですから、プロテスタントの道を用意する。 プロテスタントのオランダが、クリスチャン弾圧に手を貸したのも宗教の闇ですね。 私自身は、不信心なので、踏み絵を踏めと言われれば、「はい。 はい。」でしょうね。 改宗しろと言われれば、何宗にしましょうか。 とスンナリ受け入れていますね。 野球と信仰はまったく話が違うと理解していますが、私などは、住んでいるのが兵庫県なので、普段は阪神タイガースファン、広島に行けば広島カープファン、横浜に行けばベイスターズファンになります。 よく言えば柔軟性のある考え方。 悪く言えば心棒の無い生き方。 ですね。 あと、浦上天主堂でも、大浦天主堂でも聖母マリア像が、建物の正面にありましたが、唯一神(父)とイエス(子)とマリヤの関係で三位一体の解釈を表すものなのか。 ふと、疑問に思いましたが。 よく判りません。 |
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疑似岩 吉岡温泉(鳥取県鳥取市) |
まずは吉岡温泉について、吉岡温泉は鳥取市にあり山陰自動車道の吉岡温泉ICを降りて5分ほどで着く源泉かけ流しの温泉地です。 吉岡温泉館一ノ湯では、熱い湯とぬるい湯の二つの浴槽が設けらています。 熱い湯は45℃ぐらい。 ぬるい湯で42℃ぐらい。 露天風呂が42℃ぐらい。 しか~し、流石に温泉なので45℃でも入れます。 最初に少し心頭滅却が必要ですが、入ってしまえばこっちのもの。 いいね。 体がシャッキとするわな。 「矢でも鉄砲でも 持ってきやがれ。 こっちとら関西っ子でんねん。」と湯舟で凄んでも、地元のおじいちゃんに笑われるだけ。 ゆっくりした時間が流れる中、ゆっくり走ろう山陰自動車道。 ゆっくり楽しもう吉岡温泉。 |
新しく作られた吉岡温泉会館 一ノ湯(撮影2022/05/21) 「吉岡の熱い湯」が売りですが、一ノ湯は少し抑え目の源泉かけ流し。 以前の吉岡温泉 温泉館(撮影2011/05/22) 吉岡温泉街にある2本の道路に挟まれた場所にありました。 現在も建屋はありますが、物置のようになっています。 フロント(?)に人の好さそうなおじいさんが居て、ふるさとに帰ったような懐かしさがありました。 お湯は源泉かけ流しで最高。 ただ、掛け値なし源泉は熱すぎる湯でした。 温泉館が閉館されて、上記の一ノ湯がオープン。 |
しっとり落ち着いた温泉街の外れに秋葉公園があります。 下の写真が秋葉公園入口で、階段を登ると左手に薬師堂があり、さらに登ると秋葉大権現の社があります。 秋葉大権現は恐らく下部温泉(山梨県)で教えてもらった「秋葉さん」と同じ火の神様だと思います。 |
本題は、薬師堂でもなく、秋葉大権現でもありません。 秋葉公園入口から伸びる階段の右側にある岩です。 美しい岩は圧巻です。 |
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岩の全体写真ですが、なんとも北アルプスの岩稜を切り取ったような岩。 写真やや右側には水が流れて滝になるようです。 滝になっいる姿は見たことありません。 薬師堂へ続く階段を登りながら、パチリと一枚。 かっこいいでしょ。 この岩。 静謐なる空気に包まれ、保養には格別の効用あり。 ああ 吉岡温泉。 階段を登り切ったところは眺望良好、眼下の吉岡温泉街を望む。 (明治時代の温泉案内風の文章) |
ここまで引っ張って引っ張って吉岡温泉をご紹介してきました。 結論が最後の最後。 目から鱗が飛び出す。 お立合い!! なんと なんと 御覧いただいた 岩 すべて人工岩。 ガラス繊維強化セメント(GRC)で作られた岩なんです。 少し大きな規模にして、「ジャンダルム取り付き」とか「大キレット核心部」などを 人工的に作って、クライミングスクールに設置すれば「初めての岩稜歩き」で1コースできるわな。 どう見ても岩に見えるので臨場感もばっちり。 滑落しても、下にはマットが引かれているのでケガはしにくい。 と 妄想。 |
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弁慶石(京都府京都市) |
弁慶石の前の通りは三条通りで、弁慶石のあるエリアの町名は「弁慶石町」。 三条通りを下の写真で言えば奥へ進んでいくと、アーケードのある三条商店街を抜けて、河原町三条の交差点を渡ると、三条小橋の袂に池田屋騒動で有名な池田屋跡があります。 今回は弁慶石の鑑賞にここまで来ました。 と書いておけば、何と熱心な。 と褒められるだろうけど、実は、「みます屋 おくどはん」で京都の味を楽しもうと来ました。 まったくついでの弁慶石です。 弁慶石は、正面、側面、裏面から立体的に撮りました。 また、説明版は一部酸化して文字が読めませんでしたので、写真に撮って拡大して判読させました。 一部判読不能の文字がありますが、そこはカタカナで「マ」としています。 本来、マは誤字かな。 まあ。 黙ってたら、ええワ。 と。 |
弁慶石の安置しているビル。 写真の左端に弁慶石があります。 前の通りは「三条通り」。 楽しそうな2人づれが沢山います。 弁慶石の全景 正面 弁慶石の正面 弁慶石の側面 弁慶石の裏面 (インターネットで画像検索しても裏側を撮っているのはこれだけ) 説明板の裏側に鳥居が2つあります。 おしっこ避け? 弁慶石の説明文 表面が酸化して読みにくいので、判読できた文字は写真に追加しました。 |
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金精さま・庚申塔・蚕霊誉(山梨県山梨市) |
国道140号線をこのまま真っすぐ走ると、お気に入りの「はやぶさ温泉」。 国道140号線をはやぶさ温泉の手前を右折。 すると正徳寺温泉。 今回は正徳寺温泉へ。 ホントに民家を縫ってせまい道を行くと、なんと正徳寺温泉行き過ぎた。 ふと。 左手を見ると、金精様と庚申塔に蚕霊誉があります。 何もかも1か所に集積された形です。 |
住宅が並ぶ集落の中に金精様と庚申塔に蚕霊誉。 庚申塔は庚申信仰に基づく記念塔。 蚕霊誉は養蚕で使用された蚕の供養塔。 金精様は子供たちに、どのように説明をすればよかろうか。 と考える。 |
金精様の多くは男性器で女性器も存在します。 意味は、「子孫繁栄」です。 現代より子孫が繋がることが重要視されていたのでしょう。 |
昔は殿様から一般庶民まで世継ぎが必須だったので、子宝に恵まれますように。と。 もっと大量の金精様をご覧になりたい方は、山口県長門市の俵山温泉の近くにある「馬羅観音」に行けば、これでもかというぐらい男性器が並んでいます。 馬羅自体が、その意味ですが。 劣等感に浸るぐらいの大きさから手ごろなサイズまで取り揃えられています。 俵山温泉で営業しているのかしていないのか外からでは判別できない土産物店には、土産物で金精様が販売されています。 鳥取県鳥取市の吉岡温泉にある薬師堂にも、短魚雷ぐらいの大きさの金精様が鎮座されています。 日本全国、発想は共通なのでしょう。 それでは、吉岡温泉の金精様の変遷をご覧いただきましょう。 2011年5月22日の在りし日の金精様と2022年5月21日の金精様の約11年間の変遷です。 |
2011年5月22日の在りし日の吉岡温泉 金精様 2022年5月21日の吉岡温泉 金精様 お疲れ様です。 |
田舎が良いと思うのは、こんなのが集落の真ん中にあっても歴史の一部であり余計な詮索がないこと、自宅から歩いて行けるお墓があること。 墓参りに高速を乗り継いで、2時間掛けて行く身からは羨ましい限りです。 庚申塔や道祖神は、岐阜県、長野県、山梨県に行けば、いたるところで目にすることが出来ます。 |
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新倉の糸魚川-静岡構造線の西端(山梨県早川町) |
北岳の登山口である広河原の手前にある奈良田温泉 白根館を目指して、県道37号線を北上していると、「新倉湧水→」と看板に出くわします。 美味い水の引力により車は新倉湧水の広場に吸い込まれていきます。 車を降りると、新たな看板「フォッサマグナの西縁の断層露頭」と、その説明文があり、僅かですが、地質学には興味があるものとして、小学校4年のときに教師からフォッサマグナのことを習いました。 フォッサマグナとは「日本の真ん中にあるでっかい割れ目」と習いました。 新倉湧水は4リットルのボトルに入れてお土産に、味は軟水と硬水のちょっど中間で美味いとか不味いとかまったく無感、癖が無いので不思議な湧水です。 地元の人に訊くと「お茶(日本茶)は飛びっきり美味くなる」そうです。 ということは軟水かな。 と。 新倉湧水を後にして山側に150mほどアスファルトの道を登ります。 道端に塩見岳の稜線にゴロゴロ転がっている鋭角で四角ばった岩が、色こそ濃茶ですが同じ形状で転がっています。 まさに南アルプスの領域に居ることを実感。 アスファルトの道を白いバンが、降りてきたり登って行ったりしています。 この道の上には水力発電所があり、そこの職員の方たちかな。 リニア新幹線の工事かな。 大変ですよね。 コンビニも居酒屋もない山奥で仕事するのは。 こんな環境で仕事をする方たちに男を感じます。 私は、この自然環境好きですが、とても長期間、特に冬場は勘弁してもらいたい。 と。 すると、進行方向右手に、川の対岸に崖が見えてきます。 これがフォッサマグナの西縁の露頭でした。 フォッサマグナの西縁とは、糸魚川-静岡構造線のことを言っています。 では、東縁と言えば、柏崎-千葉構造線のことを言います。 フォッサマグナの西縁と東縁の内部はフォッサマグナの中となります。 長野市も松本市も、新宿も海浜幕張もすべてフォッサマグナの中となります。 そう考えると、首都圏はすべてフォッサマグナの中、日本の政治も経済もフォッサマグナの中で動いていることになります。 |
新倉湧水の手前にある「フォッサマグナの西縁の断層露頭」の説明看板 |
糸魚川-静岡構造線の逆断層の遠景 矢印の川の対岸が糸魚川-静岡構造線 フオッサマグナの露頭 |
「なるほど なるほど 凄いね」と口では言いながら、頭の中では「良く判らない。 ただの崖だ。」と思い至りました。 地質学に興味があるものと地質学を理解しているものとは別ものと認識した。 なので、上記写真の赤い矢印の右側の説明文を載せておきます。 判る人は判る。 判らない人は、それなりに。 わたしゃ完全に判らない人のお仲間に入れてもらいます。 川を挟んで、あまりにも遠目で眺めているのが不満の第一。 不満の第二は、岩石を触れない。 多分、岩石の色から判断すると、上部の砂色の岩石が凝灰岩で、下部の黒っぽいのが黒色粘板岩で、逆断層になっていると見た。 逆断層と言うなら、本来あるべき姿としての順断層となる断層を比較として看板に載せてほしい。 また、東側とか西側とかいう表現は、東西南北が判然としないので説明としては難し過ぎると思うのです。 自宅に帰ってから、「スマホのコンパスアプリで方向は判ったのか」と想い至りましたが、後の祭り。 糸魚川-静岡構造線の逆断層の前にある石版の説明内容 説明 糸魚川-静岡構造線 [*1]は、新潟県糸魚川市から長野県諏訪市、山梨県早川町を経て静岡に達する。 日本列島中央部を横断し、東北日本と西南日本を分ける延長250Kmにも及ぶ大断層である。 ナウマン(H.E Nauman 1854-1927 [*2])によりフォッサマグナ(Fossa Magna=大きな溝)と名付けられた地域の西側の教会を画する断層である。 山梨県早川町新倉の内河内川左岸には、糸魚川-静岡構造線の逆断層が見事に露出している。 断層の西側は、先新第三系瀬戸川層群の黒色粘板岩、東側は、新第三系新統の凝灰岩類からなり、西側の古い地層が東側の新しい地層の上にのし上がっているのが明瞭である。 わが国でも第一級の断層である糸魚川-静岡構造線が典型的に見られる場所として貴重である。 所在地 南巨摩郡早川町大字新倉字明川2913番内1 指定 平成13年8月13日 文部科学省 山梨県教育委員会 早川町教育委員会 以下 注は筆者注 [*1]:フォッサマグナも糸魚川-静岡構造線も同じものと思っていましたが、フォッサマグナは帯形状で幅があり、その帯の中に複数の構造線が含まれていることを理解しました。 同時に糸魚川-静岡構造線上に、良い温泉が点在ているのも再認識しました。 [*2]:フォッサマグナに加えてナウマン象も発見し、象にその名を留める。 明治期に日本が招聘したドイツ人のおっさん。 |
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北川露頭 中央構造線(長野県 下伊那郡大鹿村) |
国道152号線を高遠から南下して、「もう少しするとジビエの焼肉屋さんがある」と。 どうするか考えていると中央構造線溝口露頭を見逃しました。 と言うことは、また中央構造線溝口露頭を見に行く機会が出来たのであって、今更、国道152号線上でUターンするのも面倒なので、ゼロ磁場で有名な分抗峠を超えて、中央構造線北川露頭へ。 前へ前へ。 退く戦術我知らず。 じゃ。 国道152号線は片側1車線の箇所と車1台分しかなく車の離合が困難な箇所があります。 中央構造線 北川露頭は、車の離合が困難な場所にあります。 下記写真のように「北川露頭→」の看板がありますので、その中の駐車場に車を留めます。 2023年07月17日に行ったので、駐車場には堰堤工事の事務所がありました。 37℃の炎天下で、少しでも車の中に居たかったので、→方向の砂利道を進むと、何と堰堤工事の現場です。 あちぁ!! お仕事中 失礼しました。 気を取り直して駐車場に車を留めて2枚目の看板の→を頼りに進むと、工事事務所の裏手に獣道があったので、それを進むと綴れ織りの階段を降りて川原へ出ます。 |
国道152号線の横にある中央構造線北川露頭の案内看板 もちろんカーナビでセットしようとしても番地も判らず緯度経度も判りません。 なので、この看板を見落とさない様にします。 露頭の上部にある説明看板 看板で良く判りますが、手の届くところに実物があるので獣道を進みます。 綴れ織りのこんな階段を降りていきます。(階段を降りて下から撮影) 目の前は瀧音と鳥のささやきと重機の音。 熊の声は聞こえません。 川原に降り立つと、こんな景色。 これはこれで美しい風景。 |
北川露頭はどこ? 騙された。 と思って振り返ると、下の写真の露頭が目に飛び込んで来ます。 これは演出と思うぐらい「うまい演出」。 |
感動の北川露頭。 右側は内帯(領家変成帯の破砕岩) 左側が外帯(三波川変成帯の破砕岩) 徳島県の露頭と酷似しています。 両側の変成帯名も同じです。 著作権表示が無かった「露頭の上部にある看板」から抜粋 これ、判りやすいでしょ。 |
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銭星岩(岡山県苫田郡鏡野町) |
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立て看板からすると「銭星岩」ではなく「銭干岩」だと思いますが、「銭干岩」では直接的過ぎるので、ちょっと捻って「銭星岩」となったのでしょうか。 今回は、般若時温泉に入りたくて岡山県へ来たのはいいのだけれど、予約時間の2時間前に到着してしまいました。 奥津温泉の道の駅で、燕の巣をじっと眺めていましたが、燕の親がせっせと子供たちに餌を与えているのも飽きた。 ので、銭星岩へ。 「銭星岩」は、国道179号線から東に30mぐらい入ったところに存在しています。 「銭星岩」の南へ10Km行ったところに瀬戸川温泉と鏡野温泉があります。 両温泉とも廃材で加温しているめずらしいアルカリ性単純泉で、薪で加温した温泉がいかにやさしい湯になるかお試しあれ。 「銭星岩」の東に1Km行ったところに般若時温泉があり、源泉掛け流しはこうではなければならないのだと言う私が太鼓判を押したい温泉です。 私の太鼓判はシャチハタですが。 「銭星岩」の北に2Km行ったところに奥津温泉があり、適度にひなびた感と村おこしをするぞという息吹を同時に感じられる温泉街です。 奥津温泉も、とびっきり良い湯で、温泉の大吟醸だと思います。 |
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左側の赤い筒は、車のキーホルダーに付けているライトなので無視してください。 銭星岩の裏側です。 ここの長者様は、この面で銭を干していたのでしょう。 何のため? と疑問が湧きましたが、金持ちの気持ちは判らんのです。 |
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火山灰の家老 小松帯刀(鹿児島県出水市) |
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鹿児島県出水市の出水麓武家屋敷群にある地頭をされていた竹添家の敷地内にシラス(火山灰)で制作された薩摩藩 家老 小松帯刀(こまつたてわき)さんの銅像? いや砂像がありました。 鹿児島県の海岸縁の道を走っていると、脆そうな岩壁ばかりで、たぶん岩面はシラスだと思います。 どこもかしこも火山灰だらけです。 これは鳥取砂丘(鳥取県)とタイアップしてサンドフェスティバルなどと夢想してしまいます。 「あけて慶応二年(1866)一月七日、桂小五郎は上京して二本松の薩摩藩邸に迎えられ、西郷・大久保や家老の小松帯刀らと会談。 同月二十一日、坂本龍馬の仲介により、薩長同盟を密約するに至った」 *「幕末維新改メ」中村彰彦著より抜粋 小松さん ほんと男前。 今なら藩政で苦労せずとも、ジャニーズ事務所にでも行けたのにね。 言い忘れましたが、出水麓武家屋敷群は薩摩藩(*1)の駐屯地で、藩境を守る戦術基地。 その戦術基地は、方々に点在しており、拠点間の通信は狼煙(のろし)を使っていたそうです。 狼煙で情報共有して機動的に戦力を投射していたと聞きました。 仮想敵は、肥後熊本だったそうです。 肥後からの侵略を前哨基地が連携して撃破。 (*1)「薩摩藩」と書きましたが、幕藩体制が出来上がる前の話なので、正確には薩摩でしょうね。 また、薩摩藩という呼び方も、明治以降の呼び方で、江戸時代は「薩摩家中」とか言っていたはず。 |
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大湯屋 東大寺(奈良県奈良市) |
東大寺 大湯屋(奈良県奈良市) |
上の写真は、二月堂から道なりに降りて来たら左手に東大寺大湯屋が見えます。 手前の田んぼも、意味があるそうですが、聞き漏らしました。 下の写真が東大寺大湯屋です。 この角度から撮影した写真がインターネットで少なかったのでこの角度から。 二月堂にも湯屋があり、内部を外から撮影しましたが、まったく何も写っていませんでした。スミマセン。 また、「日本の岩と石」というテーマとも外れている話題で恐縮です。 |
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阿波の土柱(徳島県 阿波市) |
土柱の案内板の後ろが「ツチハシラ」? 崖崩れ? 駐車場にあった概要図(看板の右下に土柱が如何に貴重化の説明あり) 阿波の土柱 波涛嶽(はとうがたけ) 波涛嶽のアップ |
2015年04月25日に徳島県阿波市にある土柱(どちゅう)を見学しました。 1枚目の写真の看板の裏のあるのが土柱? タダの崖崩れじゃないの? 大体、土柱って何て読むの? ドチュウ? ツチノハシラ? ドチュウが正解。 何故 このがけ崩れ 失礼 土柱が世界的に貴重なのか判りません。 徳島県の県立公園に成っているのであれば、訪ねてきた県外の人に判りやすく説明してくれれば感激もヒトシオなのですが・・・。 私には、よく伝わらなかったなあ。 阿波の土柱(阿波ナビ) https://www.awanavi.jp/spot/2013032500996/ 阿波の土柱(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9F%B1 |
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百丈岩(兵庫県 神戸市) |
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JR宝塚線(JR福知山線)の道場駅から、徒歩20分にある岩登りの練習場所。 以前は、百丈岩の麓にホテルの廃墟があって、そこまでは自動車で入れたのに今は道もありません。 地元の人も、岩登りしている人以外は百丈岩を見たこともないでしょう。 いちばん左側はルンゼ状の40mザイルで1ピッチ。 右側の(これが百丈岩かな?)は40mザイルで2ピッチ。 今時「ザイル」と言って通じるかしら、セーフティロープとか味の無い言い方をするのが流行だし。 朝焼けに輝く百丈岩は、とても綺麗ですよ!! その他には、JR宝塚線(旧福知山線)沿いにある不動岩や烏帽子岩がロッククライミングのゲレンデになっています。 JR宝塚線の車窓から、不動岩を凝視すると、ときどき岩壁の真ん中で、天に延びるロープとカラフルな服がチラチラ見えます。 どうしても楽して百丈岩をご覧になりたい方は、神戸JCT方面から新名神高速道路に乗り、道場トンネルを抜けたところから右手に時速80Kmで走行すると1-2秒間見えます。 次に1-2秒走ると左手に不動岩がご覧いただけます。 高槻方面から新名神高速道路に乗ると高速道路の壁と尾根で百丈岩は見えません。 烏帽子岩は、何れからも見えません。 「百丈岩の麓にホテルの廃墟」と書きましたが、屋根は残っていたので、そこで寝てました。 翌朝、百丈岩に取りつきます。 当時、そのホテルは、建設途中にお風呂でカップルが心中したため、建設がストップ゜して、そのまま放置されていたと聴かされていました。 夜中に2つの白い物が立ち昇ると困るなあとビビりながら寝ます。 しかし、最近どうしても百丈岩を見たくて、近くの「やまびこ茶屋」に車を止めて駐車料金を女将さんに渡した時に、件の「ホテルの廃墟」の話をしたら、女将さんが大笑いして「金 そう建設資金が途中で払えなくなったので、そのまま放置。 あ は は」と一括。 あ そう。 |
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箱根 大涌谷(神奈川県 箱根町) |
箱根 大涌谷 |
♪久しぶりに手を引いて 親子で歩ける うれしさに・・ここが二重橋 おっ母さん。 2011年03月06日に渋谷と恵比寿で仕事があり東京へ出張。 しかし、行きも帰りも、温泉も入らず箱根の関所は越えられねぇ~な。 と。 2011年03月07日 東日本大震災の4日前に撮った箱根 大涌谷です。 その後、大涌谷は噴煙が酷くなり立ち入り禁止になりました。 |
大涌谷名物 黒たまご |
大涌谷名物 黒たまごは、1つ食べると7年長生きすると言われています。 自宅まで東名と名神を乗り継いで帰還途中に5つ食べたので35年は長生きする計算です。 効くかなあ。 帰りの車も調子いい!! ああ わが愛車は天然ガス車ではなくガソリン車だったか。 黒たまご効果抜群。 自動車メーカーも電気も水素もいいけれども、屁を燃料転換できる車造りは出来んもんか。 と。 |
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ぼたもち石(長野県 須坂市) |
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「目的地に着きました」と長い付き合いの女性の声がダッシュボートから優しくアナウンスされる。 着いたのは広く明るい信濃の空のもとにある「須坂クラシック美術館」です。 ぼたもち石は、どれでしょうか? ぼたもち石は、右側のおしゃれな蔵の基礎部分です。 |
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いいですね。 「わしは金持ちやで!! ガハ ガハ ガハ」と高笑いすることなく、さり気なく財力を誇る奥ゆかしさが、いいですね。 もっとも、私などは、今ならストーンカッターとグライダーで簡単に作れそうで、現代版ぼたもち石を作ったら面白いだろう。 しかし、ぼたもち石の意味が解らないだろうね。 現代では。 現代では「いつかはクラウン」というキャッチフレーズで高級車もどうかと思いますし、レクサスオーナーからは笑われるだろうし。 バカ大きな家に住んでも、掃除が大変だし、固定資産税もバカにならんのだ。 バカ大きな家に住む人は、掃除も自分ではしないし、固定資産税も気にしないわな!! シュンとなる話。 |
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ぼたもち石で構築された蔵の基礎部分。 |
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ぼたもち石の拡大写真。 これ見ても、やっぱりピンときませんね。 だから・・・。 と。 |
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上の写真のぼたもち石は、2017年5月に撮ったものです。 下の写真のぼたもち石は、2020年7月に撮ったものです。 イオン須坂店を出発して、一路「信州高山温泉郷」へと車を走らせていると、信号が赤。 ふと、横を見ると、あるじゃないですか。 ぼたもち石が・・・。 慌てて写真を撮りました。 |
正式には「ぼたもち石」ではないのかな? |
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絶賛発売検討中 古代の投弾石 6個セット(兵庫県 朝来市) |
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「道の駅但馬まほろば」の隣に「朝来市埋蔵文化財センター(古代あさご館)」があります。 「道の駅但馬まほろば」は、北近畿豊岡自動車道にある道の駅です。 道の駅但馬まほろばに毎回寄る度に岩津ネギを買います。 寒い季節だけ岩津ネギが販売されています。 岩津ネギは絶品のねぎ。 中からジュルジュルとジェル状のものが出てきます。鍋にして良し、焼きねぎでよし。 その場で岩津ネギを食べたければ、道の駅但馬まほろばの入口で「岩津ネギたこ焼き」を焼いている会話の弾むおじさんがいますので、そちらでどうぞ。 美味いよ。 さて、写真のはなし。 写真は古代あさご館で展示されている近辺の古墳から出土した弥生時代の投弾石です。 投弾石の表示の横に「?」が付いているので、「投弾石かも?」なのでしょう。 古墳を守るため? まあ、当時は古墳ではなく有力者の墓でしょうが。 集落を守るため? 「対他村戦闘用意 投弾石 目標50 方位210 仰角40 ウテェ!!」か。 しかし、ただの砂岩(たぶん?)の石ころ。 しかも比重は軽そう。 殺傷能力未定 弾数6個。 悲しみよ こんにちわ。 サガン。 まあ、このフレーズは若い人には判らんわな。 最大の価値を生むためには、 「この投弾石は、河内の千早城において楠木正成公が、幕府軍に対して投弾した由緒正しい石です。」と説明書を付けるか。 「でも、お高いでしょ!!」 と。 そこで、「今なら、千早城の本塁から幕府軍へ向けて落とした丸太を1本プレゼントいたします。 放送終了後30分以内の特典です。」と畳み掛けます。 (楠木正成公は楠木軍の前線指揮をする大将なので、気が敵兵一人に一点集中するようなことは絶対にしません。) 色々と考えていると、悪い妄想が頭に浮かぶ。 キャッチコピーは、 「絶賛発売中 弥生時代の貴重な投弾石 6弾セットで唯一無比。 限定1セットのみ。」か。 今、30分以内にお買い上げの方は、送料無料、さらにもう1セットプレゼント。 ここで馬脚を現す。 限定1セットのみと謳いながら、さらにもう1セットプレゼント。 ここまで考えて、価格はいくらにすればいいのか。 あれやこれや思案する。 取らぬ狸の皮算用。 妄想。 夢想は続く。 朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」 https://www.city.asago.hyogo.jp/0000001052.html |
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イケズ石(京都府京都市) |
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盆地の京都市内にはイケズ石という石がゴロゴロと転がっています。 周りの山々から、崩れ落ちてきた石ではありません。 イケズ石は機能性鉱石です。 イケズ石のイケズは、「イケズやわ。 この好かん タコ!!」と祇園の舞妓さんがお座敷で嫌な客に放つ言葉。 イケズは標準語で「意地悪」を意味します。 ちょっと、話は飛びますが、プロトコルについて。 プロトコルの講釈を垂れた後に、本題に戻ります。 プロトコルとは、元々は外交上の儀礼と言う意味でしたが、現在ではインターネット通信の通信規約をプロトコルと言います。 このページをご覧頂いているのは、「https」というインターネット通信規格に基づいて、発信側と受信側が共通の手順に従って受発信が成立しています。 医療で治験、臨床、手術などの手順もプロトコール。 まず、この血管を止血。 次に隣の血管を止血。の手順。 手順を間違うと拙いことになります。 アメリカ映画で、地球侵略を目論む宇宙人に対して、地球に不時着した敵円盤を回収して、その円盤で敵母船に侵入して母船のセントラルコンピューターにウイルスをインプットして、敵システムをダウンさせ、地球を救う。 というストーリーでハッピィエンド。 偉大なアメリカと絶賛。 無理 無理。 敵のプロトコルやプログラム言語が理解できなければ敵システムにどうやって侵入するのよ。 と。 これは私の造語ですが、京都には京都文化に根差した「京都プロトコル」が存在し、他の都道府県の人が京都で意思疎通、齟齬が発生するのは、プロトコルが違うために起こることと解釈しています。 ですので、それぞれ他の市区町村ごとにプロトコルがあります。 京都プロトコルと他の市区町村プロトコルで接続できません。 ということ。 話を本題の「イケズ石」に戻します。 イケズ石は、京都プロトコルの1つで、「うちの家の前に自動車を止めんといておくれやす。」という意味で、大阪プロトコルなら、自動車が停車した途端に「おい。 こら。 ここに車を停めんな。 バカタレが。」と大声で捲し立てる場面。 しかし、京都プロトコルでは、直接言うことはせず、物理的に自己の主張を具現化させます。 それが京都プロトコルにおけるイケズ石。 ただ、イケズ石も、歩道が整備され道路管理が強化されて、今や絶滅危惧プロトコルとなっています。 京都観光で、「イケズ石を発見する旅」というのも雅(みやび)かな。 と。 |
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珪化石[ケイカセキ](兵庫県西宮市) |
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珪化石と書いて、ケイカボクと読むそうです。 ケイカボクは珪化木と書かねば子供の教育上悪い。 珪化石と書いて、ケイカセキと読む。 その心は・・・。 大喜利風に書いたのですが、「その心は」の後が思いつきません。 これでは山田君も座布団を運んでくれません。 この珪化石の展示場所が展示場所なので、ちょっとネチネチと書いてしまいました。 兵庫県西宮市にある西宮市役所の敷地内の東側に展示されています。 兵庫県立西宮病院側にあります。 兵庫県立西宮病院は西宮市立中央病院と合体させて、別の場所に移転する計画があるので、いつまでこの文章が正しいのか不明です。 本題に戻って、西宮の小中学生のために、下記のとおり書き換えたらどうでしょう。 「珪化石(けいかせき)または珪化木(けいかぼく)と言います。」でいいのかな? 発見された山口町金仙寺は、裏六甲に位置していて金仙寺湖があます。 金仙寺湖の周辺は、お気に入りのお店が沢山あります。 ご紹介します。 西洋料理 船坂(西洋料理) http://www.seiyoryori-funasaka.com/ すじかま(すじ肉煮とうどん) HPはありませんので食べログで。 https://tabelog.com/hyogo/A2803/A280301/28002185/ 仁木家(イタリア料理) https://niki-ya.com/italian シェタンバ(フランス料理) HPはありませんので食べログで。 https://tabelog.com/hyogo/A2801/A280112/28012106/ |
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石像 温泉旅館(福岡県筑紫野市) |
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九州の温泉旅館の庭池にこんな綺麗な蓮の花が・・・。 温泉も極楽でした。 ここも極楽か。 ね。 |
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さあ。 ここからが本題。 温泉から出て、左に庭を見ると、何かをしている石像がありました。 何とも不思議な石像。 第一印象は、レスキュー隊員が要救助者を抱えてヘリコプターへ吊り上げられているように見えます。 しかし、見方を変えれば下半身を擦り合わせているのが気になるところ。 不思議な石像。 |
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四万の甌穴群(群馬県吾妻郡中之条町) |
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四万温泉へ向かう国道353号線の途中に「四万の甌穴群」があります。 甌穴とは、川の流水圧により、流れている石が丸くなり、やがて水流の関係で流れなくなり、一か所で水流により回転を始めます。 長い長い間、同じ場所で回転します。 丁度、電気ドリルで穴を開けるように、石が天然の回転ドリルの役割を果たして、川底が削られて甌穴となります。 で、この看板は何? 阿波の土柱のときと同じ思いです。 四万川が大雨で増水して、全ての甌穴が水没。 どれが甌穴か判別が付かない。 ならば看板に甌穴の写真を添付しておいて貰えれば親切なのですが。 群馬県教育委員会さん。 多分、これが甌穴なのだと。 認定しました。 断定しました。 見做す。 です。 |
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私しの認定甌穴ですので、 もし、間違っていた場合は、群馬県教育委員会へクレームを。 甌穴を別としても、四万川は美しい。 「四万川を見る」という目的で行けば、腹も立たんのだ。 |
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西郷隆盛洞窟 (鹿児島県鹿児島市) |
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最初に「西郷隆盛洞窟」については、上記の説明看板から抜粋した説明が判りやすいので載せておきます。 大政奉還から明治維新までの人物で興味深いくて好きと言えば、徳川幕府側では幕臣 小栗忠順、会津藩 松平容保、新選組局長 近藤勇、反幕府側では、薩摩藩 家老 小松帯刀、西郷隆盛、長州藩 吉田松陰、高杉晋作、他藩では長岡藩 河合継之助、三田藩 川本幸民、庄内藩 酒井玄蕃ぐらいかな。 それぞれの立場や所属は違いますが、自分の考えを貫いた方々。 今の日本には居ないタイプです。 台湾に行けば、日本人が神様のように祀られていますが、ほとんどが戦前や戦中の日本人。 唯一例外が、安倍晋三元総理ぐらい。 GHQの占領政策の中で、台湾から尊敬される日本人は居なくなったのでしょうか。 と疑問形で逃げる卑怯さ、私 現代日本人ですから。 中でも、西郷隆盛公は大好き。 実は、この人は掴みどころがありません。 余りに器が大きすぎて、私(わたくし)が無さ過ぎて掴めません。 だから、薩摩藩領へ通って、西郷さんの足跡を嗅ぎまわる羽目になるのでしょうね。 西郷さんを感じる土地で、何か得れるかというと、掴みどころのない無心の人と言うのは、始末に困る。 と いつも腕組みして考えさせられます。 鹿児島空港に着陸した時に、いつも出る感情は「いざ 薩摩藩領」と言う想い。 |
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西郷隆盛洞窟の場所は、「 鹿児島県鹿児島市城山町19」で、城山公園の展望台へ行く途中にあります。 誤解されると困るので先に申し述べます。 朝起きて、一目散に「西郷隆盛洞窟」にカーナビを合わせて来ました。 決して温泉巡りのついでにやって来た訳ではありません。 西郷隆盛洞窟の全景ですが、道路の向こう側、写真では木の陰のなって真っ暗ですが、この真っ暗なところに洞窟が2つあります。 自宅に帰ってから「全景で洞窟の位置がわからんぞ!!」と気が付きましたので、悪しからずです。 先に提示させて頂きました説明看板が写真中央に小さく写っています。 |
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西郷隆盛洞窟は、南九州独特のシラス崖を掘って洞窟にしたように思います。 シラスとは、火山灰が積もって石化して砂岩層となったものか、または火砕流が固まった砂岩層だと思います。 なので、携帯スコップや短剣で短時間に掘れたと推測します。 柵があって直接触ることが出来ません。 洞窟に入ることも出来ません。 ので推測です。 西郷隆盛洞窟は2つあります。 上の写真の西郷隆盛洞窟は幅1メートルの間口で、奥行きも1メートルぐらい。 とても体を休めることは不可能だと思います。 銃座としても、たった1発の小銃弾が入れば、中で跳弾となり不利だなあと思いました。 シラス層に小銃弾を撃ち込むと、適当に砂岩が弾き飛んで、運動エネルギーを吸収する機能があるかもとも思いました。 下の写真の西郷隆盛洞窟は幅2メートルの間口で、奥行きは3メートルぐらいで、洞窟に入って左側に曲がっており、奥行ももう少しあるように見えました。 多分、西郷公は、下の写真の洞窟で指揮を取られていたのかな。 と推測。 後に城山公園のボランティアガイドさんに、根彫り葉彫り質問しましたが、やはり当時の詳細は不明とのこと。 多分、嫌な観光客だと思われたことでしょう。 まさに西郷公がここで「おはんらにやった命」と言いながら、指揮されていたと思うと胸が熱くなります。 |
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冒頭述べた通り「決して温泉巡りのついでにやって来た訳ではありません」が、西郷隆盛洞窟と道を挟んで「天然かけ流し温泉 長寿泉」があります。 西郷さんも入浴したかも知れませんので、西郷さんの足跡として、入浴する義務があると考えて、義務感から入浴。 ぱっちり源泉かけ流しでした。 西郷さんと温泉で言うと、栗野岳温泉 南洲館さんが臨時休業のままで、未だに営業されていないのが気に掛かります。 結局、温泉かい。 とのご批判は甘んじてお受けいたします。 ご意見はご意見として真摯に受け止めます。 |
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長々とお読みいただきありがとうごさいました。 |
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